謝々!チャイニーズ 星野博美

第32回大宅壮一ノンフィクション賞「転がる香港に苔は生えない」で星野博美さんのことを知って、
彼女のデビュー作である本書を手に取った。
これは、1993~4年、彼女が27、28歳くらいのときに、中国華南地域を旅して書いた本。
いわば旅行記であり、彼女にとっては二十代の集大成に位置づけられる。
彼女自身が、本書で語っている。
この旅の中、日本人には全く出会わなかった。
今や、どこにでもいる日本人というのは全くのうそ。
それは「地球の歩き方」というマニュアルに載っている場所を旅しているからだ、と。
今では「地球の歩き方」にも、「広州 アモイ 桂林 珠江デルタと華南地方」編が出ているけど、
内容は非常に心もとない。
華南地域をわざわざ旅行しようなんていう日本人は今でもあまりいない。
それ以外に魅力的な場所なんて世の中いくらでもある。
優先順位では下の下の、そのまた下だろう。
そんな場所に興味をもち、一人で旅した女性がいた。
僕は香港に住んでいて、旅行先といったら華南地方を周ることが多いので、内容はとても興味深かった。
感じたのは、ああ、今の中国はもう違うなあ、ということ、そして、一人旅で感じることって似たり寄ったりだなあ、ということ。
彼女は、中国人に、「生きること」の尊さを教えられたという。
「生きること」、ただ生き抜くことがどれほど大変なことか、平和な日本に生まれ、忘れるもなにも知りもしなかった、
その当たり前の野生的感覚を、中国人にまざまざと見せ付けられる。
そして、自分も生きたいと願った。
20年経って、彼女は「生きている」のだろうか。
かたやそれだけの時間が経って、中国の沿岸地域は発展した。
人の生活は確実に豊かになっている。
情報統制をされているといっても、情報はどこかしこから入ってくる。
今の中国人は、改革開放されたばかりの無知な人達ではない。
生活水準もモラルも格段に向上している。
逆に言えば、旅行をしていて、そこまで日本との差を意識する機会は減りつつある。
日本人も中国人も大して変わらない。
それが今の感覚。
「生きること」は簡単になり、リアリティーを忘れた若者が増えている。
そんな変わりつつある中国だけど、
博美氏が感じて書いたことには共感できるところがあった。
それは中国に限らず、一人旅全般に言えることでもあるかもしれない。
一人になりたくても、その土地で自分は珍しい存在で一人になれないもどかしさ。
旅行しているくせに一人になりたがるバカバカしさ。
なんのためらいも無く捨てられるゴミと、汚い町。公共観念の無さ。
物を買うのにも、乗り物に乗るのにも戦いを強いられること。そして気づく生きる本能。
良くしてくれた現地人に「ともだち」としてお願いされることのプレッシャー。そして結局何もしない自分。
「いつかまた会おう」という嘘っぱちと、罪悪感。
結局のところ、旅人というのは、傍観者に過ぎない。
ある地域、町、人を客観的に見て、評価して、論評する傍観者に過ぎない。
ただ、その短い出会いの中で、お互いふれあい、影響しあったことが、何か一生をかけた行動のきっかけにはなるかもしれない。
そのわずかなチャンスだけが希望だ。
パスポートを持てず、金も持てず、自由に行動できない現地人。
パスポートを持ち、金を持たないというくせに数ヶ月旅行するくらいの金を軽く持ち、自由に行動できる日本人。
この図式での出会い。それは対等とはいえないし、そこで生まれた関係も対等なものにはならない。
だから、旅は嫌いだ。
発展途上国の人達を動物園の動物のように覗き込んで、眺めて珍しがる旅という贅沢が嫌いだ。
いっそのこと、全ての国、人が発展して、対等になってくれれば良いと思う。
星野博美さんは華南を旅した。
でも、きっとそんなに長い旅ではなかったんだろうな、と思った。


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